2022年6月2日木曜日

らっきょうを収穫して漬ける

らっきょうがほどよく育ったので収穫するのである。

らっきょうは放っとくと、どんどん玉が小さくなってしまうので、適度に収穫しなければならないのである。

まあ、あたしゃ小さいほうが食いやすいので、それもやぶさかではないが、それにしても限度があるので、とにもかくにも収穫するわけである。

収穫したらひげ根と上部の茎を切り落として、水でジャージャーと洗うと、このように美味そうならっきょうの下ごしらえのできあがりである。

これがけっこう時間がかかって、まず包丁を研いでから始めるので、この量で小一時間である。

あたしらプロの料理人の始まりは包丁研ぎからである。

誰が風呂の掃除人だ。

ゆーとらんゆーとらん。

ううう、死ぬほどつまらん、いったいどうしたんだ、スランプかよ。

まあ、なんでもいいが、下ごしらえをしたら、塩をまぶして2日ほど置くのである。

この塩漬けの期間は、冷蔵庫に保存の場合は1時間から数時間という方法もあるが、我が家に伝わる先祖伝来の漬け方では2日ほど置いとくのである。

つまり、あたしの方法は冷蔵庫がなかった保存食としての古漬けを前提とした古式であるので、その方法を踏襲してるということである。

塩に十分漬かったところでざっと洗い流して、酢と砂糖と鷹の爪を輪切りにして入れて、さらに漬け込むわけである。

いわゆる日本式ピクルスである。

酢については、あらかじめ砂糖や塩や調味料の入った「らっきょう酢」てなものが市販されているが、あたしの場合は方丈の流れをくむ由緒正しい百姓家に伝わる古式であるので通常の穀物酢である。

まあ、それをいわゆる漬物小屋に保管して、少なくとも3ヶ月程度置くと、らっきょうの古漬けのできあがりである。

しっかり漬けてあるので1年程度は保存できるのである。

さらに順番に収穫して漬けるので、常時ラッキョウの漬物を食えるわけである。

象気功

2022年5月23日月曜日

絹さやを収穫する

我が自然農法の100万坪の大菜園の絹さやができたので収穫するのである。

なんでもとりあえず100万坪かよ。

ありていに言えば、絹さやの収穫はそろそろ終わりである。

サヤエンドウ(莢豌豆・絹莢)とは、エンドウの若いさやを食用とする場合の呼び方であるあり、さらに、絹さやは品種ではなく、さやの長さが5 - 6 cmくらいのうちに若採りするエンドウ豆の総称であるということである。

なるほどねー、そうとう前から絹さやを作ってるが、うかつにも知らなかったのである。

まあ、だいたいがあたしの人生はうかつの連続でできているのである。

うかつなあたしであるが、絹さやの茎や葉や花も食えることは知ってるのである。

絹さや収穫のついでに茎と葉と花も収穫である。

お野菜を八百屋さんで買う一般庶民と自作農業家の一線を画す、ありがたい紙の思し召しである。

誰が紙だ。

神と紙をいっしょにするなんて、紙に失礼だろ。

ううむ、ひどくつまらん。

じゃあ、言うな。

言わせてよ~。

てなことであるが、まあ、いずれにしても育ったら食うのがお野菜に対する礼儀である。

絹さやと茎と葉と花のオリーブオイル炒めである。

味付けは基本の塩コショウにオイスターソースと醤油とみりんその他である。

付け合わせはあり合わせのシューマイである。

まあ、男の料理だから見場は無骨であるが、茎や葉の青臭さが、なんともかんともたまらん味わいである。

象気功

2022年5月15日日曜日

キャベツができたぞ

 


てきとーに撒いたキャベツが意外に元気に育って、食えそうになったので収穫するわけである。

かわいいかわいいと育てて挙句の果てに食っちまうわけである。

もちろん食うために育てているのであって、売るために育てているわけでもないので当たり前である。

なにしろ家庭菜園という名のいわゆる素人農家であるので、鶏さんや豚さんを育てて食うことはとてもできないので、育てたのがキャベツで、心置きなく食えるのでよかったよかったということである。

ううむ、かなり語弊があるので、前言を撤回いたします。

撤回したら消せよ。

やだよ~だ。

自然農法というよりはてきとーに種まきしてのほったらかし農法であるので、完全無農薬である都合上、虫さんが先にお召し上がりになるが、そんなに食われてないのでラッキーである。

まあ、とにかく久しぶりの更新であるが、べつに冬場もお野菜を作ってなかったわけではなく、更新がめんどくさかっただけであるのは言うまでもないことである。

でも、キャベツがけっこう美味そうにできたのでアップしたくなったわけである。

象気功

2021年12月27日月曜日

コンポスターで生ゴミから有機肥料を作る

あたしの農園にある高さ80センチほどのでかいコンポスターである。

実はこれのお名前がコンポスターであるということを知らなかったのである。

スマホのGoogle検索についてるお写真を撮ると名前がわかるやつ、ああ、画像検索というらしいが、それで調べて初めてわかったのである。

このコンポスターは我が社の店子であった資材置き場が店仕舞いするときに置いていったものの中にあったのをもらったのである。

まあ、いきなりそんな話をしても意味が分からんとは思うが、要するにその会社が左前になって、物件から出ていくから備品を始末してしまうので、欲しいものがあったらなんでもあげるよということである。

まあ、そんな余談はどーでもいいのであるが、このコンポスターは生ゴミや野菜くずや枯れ葉などを入れておくと、微生物が分解して有機肥料になるという優れモノである。

バケツをひっくり返した状態の底抜けで、上の取っ手を開けて入れるのである。

あたしの場合はもっぱら食ったものの残り、いわゆる生ゴミ残飯の処理用であるが、これが我が自然農法の有機肥料の糧である。

だからうちからは生ゴミは出ないのである。

生ゴミは全部ありがたい有機肥料のための資源である。

一昔前まではうちの近所のどこの農家でもとても言えない人間由来の完全有機肥料をいわゆるくみ取り柄杓で畑に撒いていたわけであるが、とんでもない臭気に対する新興住宅地からの苦情と衛生面の問題もあり、また東京都の辺地の我が地域も下水道が完備されてやろうにもできない時代となったわけである。

いかに史上最強の霊能気功師のあたしといえども生ごみはそれなりに大量に出るので、これを資源回収分別の燃えるゴミの日に出してたら大変であるが、そこはそれ家庭菜園の複合利益というのか自然回帰といのか生命の循環というのか、食ったもんから肥料を作って、それを使って野菜を作って、その野菜で料理を作って、それを食って、その残りから肥料を作るという、地球環境にやさしい実にナチュラリストとしての理想郷うううでたらめにキーボードを打ってたら詰まった。

とにかく生ごみや野菜くずをこのコンポスターに入れておくと、勝手に有機肥料ができあがるので、頃合いを見て、畑に穴を掘ってそれを埋めるのである。

すると嗅覚が人間の何万倍だかしらんが、ハクビシンくんがその匂いを嗅ぎつけて、掘り返すのである。

写真では浅く見えるがこれがけっこうな掘り具合で、せっかく埋めた肥料になり切れない生ゴミや野菜くずが掘り返されて付近に散乱するのである。

しかし、それを目ざとく見つけたカラスくんが大方をもっていってしまうので、写真ではミカンの皮が少し残ってるだけである。

こちらはもっと前に埋めた場所を深く掘り返した穴である。

こちらも写真ではうまく表現できないが、そうとう深く掘っているのである。

でも、すでに微生物に分解されて肥料になってしまったせいか、何も散乱してないのである。

まあ、冬の野生動物の暮らしの厳しさがわかる光景である。

あたしがハクビシンくんが掘り返したあとを埋めたり、またそれをハクビシンくんが掘り返したりと大奮闘してるうちに、コンポスターで作った生ゴミと野菜くず由来の再生有機肥料のおかげで先月新しく種を蒔いた白菜が芽を出したのである。

時期が遅いので育つかどうかはわからんが、食えるようになれば結球しなくてもどんどん食ってしまうので問題はないのである。

これはもっと前に種を蒔いて育った白菜の結球を援助するためにヒモでお縛り申し上げたのであるが、まあ、要するに中に土が入らないようにということもあるわけである。

同様に、生ゴミと野菜くずのおかげですっかり育った左が大根と右がキャベツの皆さんである。

氷点下4度Cで凍った今朝の我が農園である。

これでもお野菜の皆さんは厳寒にも負けず元気にけなげにお育ちになるのである。

実に愛おしく可愛い限りであるが、もちろん全部残さず食っちゃうのである。

象気功

2021年11月25日木曜日

ラディッシュを収穫してラディッシュと葉のサラダを作る

10月後半に種を蒔いたラディッシュが食べごろになったので収穫するのである。

収穫したらば例によって水でジャージャー洗うのである。

まあ、主に泥を洗い流すわけであるが、時期によっては虫さんがついてる場合もあるので、まあ、虫もタンパク質と考えれば悪くはないが、やはり気持ち悪いと感ずる向きも多かろうから、やはり洗い流すわけである。

ラディッシュはてきとーに蒔くと20日ほどで食べごろになるので、いわゆる20日大根てな呼び名もあるぐらいで大根の仲間である。

3月から6月、9月から12月にかけてと何度も蒔いて収穫できるので、実に重宝するお野菜である。

ラディッシュは大根の仲間であるので、消化を助けるジアスターゼとビタミンCが豊富なお野菜である。

また、葉にはビタミンCのほかにビタミンK、ミネラル、βカロテン、葉酸や食物繊維も豊富に含まれ、もちろん食えるので、そのまま浅漬けにしてもおひたしにしてもいいという、これまた実にお得なお野菜である。

ということで作ったラディッシュと葉のサラダである。

まあ、正確にはラディッシュの根のスライスと葉のおひたしである。

おひたしがサラダかどうかというご意見もあろうが、「生野菜、ゆでた野菜、または下調理された魚貝類、獣鳥肉類などをサラダ用ソースで和(あ)えるか、またはソースを添えて供する冷製料理である。」(大日本百科全書・ニッポニカ)ということであるので、サラダと思えばサラダであるわけである。

根はもちろん生であるので、爽やかな辛味とともになかなか食欲に貢献する味わいである。

葉も生で食えるが、大量に食いたいあたしは湯がいておひたしにするのが通常である。

食物繊維は腸内細菌の餌であるので、健康法を追求する気功家として、それなりに多めに食いたいあたしである。

象気功

2021年11月23日火曜日

勝手に芽を出した小松菜を植え替える

我が象形流自然農園の畑のあちこちに勝手に芽を出した小松菜を集めて植え替えるのである。

小松菜は食い残しというのか、育ったものをほっとくと黄色い花が咲いて種ができて、それが散らばってあちこちに勝手に芽を出すのである。

まあ、自然の植物の繁殖であるといえばそうであるが、家庭菜園てなものはホームセンターあるいは農協あるいは種屋さんなどで買ってきた種を蒔くというのがお定まりの作業である。

しかし、そうしなくても育ったものを収穫せずにほっとくと勝手に雑草状態で繁殖するのである。

当たり前である。

それが植物の本来の種の保存であるが、まあ、品種改良で種なしで一代限りの作物もあるので、すべての作物がその限りではないが、とにもかくにもうちの小松菜は畑のあちこちに毎年勝手に芽を出すのである。

しかし、勝手に芽を出すとは言っても雑草とまじって何が何やらわからなくなるので、ひとつひとつ丁寧に掘り起こして植え替えることが毎年のルーティンである。

この場合ルーティンが正しい表現かどうかはわからんが、とにかくルーティンである。

これも家庭菜園の楽しみのひとつであるので、あたしとしては「おー、よしよし、こんなところに出てきたか、ちゃんといい畑に植え替えてやるぞ」というお気持ちであるが、小松菜からすれば元気よく芽を出してこれから育とうとするところを引き抜かれてしまうので、大きなお世話であるかもしれないのである。

30本ほど掘り起こして、それをテミあるいは手箕あるいは千吉、ちなみにうちではゴミトリ箕と呼んでいる箕に集めるとこんな量である。

ものがいわゆる苗であるが、市販の苗とは違いカップもないし根元の土はないので量はこんなもんである。

こんなてきとーな方法で植え替えて大丈夫なのかと思う向きもあろうが、大丈夫である。

何がなんでも完全無農薬有機野菜を食いたいという健康意欲と食い意地に突き動かされた大ベテランアマチュア自作農のノウハウである。

さて、そんなこんなで植え替えた小松菜の皆さんである。

水をたっぷりと差し上げたので気持ちよさそうと思うのはあたしの勝手な思い込みとしても、土起こしをして耕した畑であるので根が張りやすいであろうことは推測に難くないのである。

小松菜は育つと葉が巨大になるので、間隔をもう少し開けた方が良かったかもしれんが、まあ、楽しいご近所付き合いということで下町風情を楽しんでいただきたい。

自分でも何言ってるのかよくわからんが、とにもかくにもこんな具合で勝手に芽を出したあれこれの作物をときどき植え替えすることがあたしの自然農法の農作業のひとつである。

健康長寿を願う気功法あるいは健康法の基本は食である。

象気功

2021年11月18日木曜日

山の柿を収穫する

うちの裏山に非常に古い柿の木があるが、あたしが子供のころからあるので、樹齢は100年以上と思われるのである。

この地は古くはいわゆる柿畑(かきばた)で、柿の木が何本も植えてあって、あたしの親の代には出荷していたのであるが、現在はこの一本が残ってるだけである。

山の野生の柿はヤマガキと呼ばれるそうであるが、この柿の木は先祖が植えたものであるのでヤマガキではないわけである。

桃栗三年柿八年という通り、柿の果実を食べられるようになるには植えてから8年の歳月を費やすということであるが、100年前の先祖が植えた柿を今食えるのは実に感慨深いことである。

現在はなにしろ山の木であるので、手入れもへったくれもなくて、枝折りもしないせいで毎年それなりに果実を付けるのである。

柿の枝折りというのは、収穫の際に隔年で枝を折って果実が生らないようにして、柿の木を休ませることである。

「梅を切らぬバカ、桜を折るバカ、柿折らぬバカ」という格言にもあるとおり、柿は適宜枝を折って休ませる方が木が元気になりよい実を付けるということである。

畑などでもときどき土地を休ませる場合があることと同様である。

秋も押し詰まり、採らないと熟しすぎてしまうので、とにもかくにもテレビショッピングで買った高枝切りばさみを持ってはせ参じて上を向いてパツンパツンと切り落としたのである。

柿の果実をはさんでゆっくりと降ろすのが本来であるが、めんどくさいので切り落としである。

まあ、山であるので、地面が枯れ葉の腐葉土で柔らかいのでそんなに傷まないのである。

いずれにしも売るわけでもないので食えりゃいいというお気楽な柿の収穫である。

まあ、収穫というのもおこがましいので柿とりというのが正しい表現であるかもしれないのである。

昔は柿とり棒という先が二股に割れた長い竹を使って枝をパキンパキンと折ってとったのであるが、今は高枝切りばさみで切り落としてるわけである。

ということで切り落としの柿を例によって水でジャージャー洗ったわけであるが、完熟であるので、まっかっかである。

完熟している柿は砂糖をかけたように甘いので糖度はいかばかりかと思うが、実は叔父がこれを毎日食いすぎて糖尿病になってしまったので、あたしは心を鬼にして食う量を制限してるである。

品種は富有柿であるが、小売店で見かけるものとは大きさも相当違うので、なにしろ古い木であるので、おそらく原種であるかもしれないのである。

柿は一個食べれば一日分のビタミンCがとれてしまうほど豊富であるのであたしら健康マニアには欠かせない秋の果物である。

また、アセトアルデヒドの排出を促し二日酔いにも良いとされるが、そもそも二日酔いになるほど酒を飲むことに問題があるので、柿を二日酔いの対策と考えるのは本末転倒である。

このようにきわめて健康に良いとされる柿も食べ過ぎれば前述の糖尿病り患などろくなことにはならんので、そこはそれ何事も足ることを知らなければならないのは言うまでないことである。

象気功